1958年北海道大博覧会開催された。その跡地にはバラと山内壮夫の彫刻を主体とした「百花園」が造られた。残念ながら、1995年に始まる「平成の再整備」で中島公園の中心に位置した「百花園」は消えてしまった。中島公園が最も賑わっていたのは「百花園」のあった36年間ではないだろうか。
中島公園「百花園」1994年10月7日撮影。 札幌市公文書館所蔵
以下の写真は「中島パフェ」訪問者のAさんが1978年か98年にかけて中島公園で撮影した写真。Aさんの説明文を参考にして管理人が文章を書いたが、所詮素人説明しきれない部分も多い。ここを出発点として勉強しなければと思っている。
ウォーターシュートの思い出(1972年の空撮写真を見て)
昔の中島公園の写真を提供してくれたAさんがウォーターシュートの思い出を次のように書いてくれた。先ず当時の空撮写真を見てみよう。
1972年5月当時の空撮写真に百花園や子供の国。札幌市公文書館所蔵
「1972年当時の空撮写真を見て、公園を楽しんでいた身として思い出がわきました。遊園地として設けられていた『ウオーターシュート』(赤丸)に気がついたのです。画面やや左上方にジャンプ台を思わせるスロープが池に向かって延びています」
それは野球場、百花園、子供の国があった時代だった。もう一度、上の写真を見てみよう。ウオーターシュートを基点に時計回りに、斜め楕円形の「百花園」、その横に中島球場の一部、その下に三重丸の「中央広場」がある。
更に下がって遊具が見える「子供の国」、左側にまん丸の「記念広場」、下の方に野外ステージの屋根が見える。そして小さな白いドームの「天文台」があり、菖蒲池に戻る。この中で今でも残っているのは天文台と菖蒲池だけ、中島公園が様変わりした平成の再整備だった。
菖蒲池南東岸の築山にウオーターシュート。『北海道大博覧会協賛会誌』
再びAさんの説明文にもどる。
「長方形のボートに数人の客が乗り、船首の平たいところに船頭が立ちます。 ボートが着水する瞬間に船頭がジャンプしてボートを安定させるダイナミックでスリリングな遊具でした。人手が掛かるので博覧会終了後に無くなったと想像します」
写真をよく見ると、着水したウオーターシュートとボートが水上にある。この築山は残っているが、子供たちが見ている飲食店のような場所はない。関連写真を見ると「XX牛乳」とか「XXアイスクリーム」とかの字が書いてある。XXの部分は字崩れしていて読めなかったが「雪印」だろうか? 平成の再整備以前の中島公園は楽しく遊べる場所だったようだ。
明治時代(1897年頃)からあった貸しボート
明治の昔からあった貸しボートについて『中島公園百年』に次のように書いてある。「釣堀から始まって明治30(1897)年過ぎから貸しボートが登場する。これは最初は日吉亭が行ったが、のちに大中が優位を占める。ボートは夏の仕事であるが、冬は陸揚げされて冬籠りするのもわびしい。
春になるとペンキを塗替えてまた息づく。中央の土手を取り払って一つの池にしたことにより、さらに楽しみを倍加させた。『O番さん時間ですよ』と呼ぶマイクロフォンの声は池上に広がりなつかしい声である。
貸しボートの櫓は、最初一枚の板幅の広い水を大きくかくように作られていたが、重いことから今の二枚のスマートな櫓になった。
大正7年の開道50年記念博覧会のときは、数軒の斉藤と、その他の人の所有で20隻を数えた。舟型は今とそうかわりはないが、すべて木造であることはいうまでもない。
そのころから大中ボートで代表されるようになったのは、料亭大中亭がボートを所有していたからで、今でも大中がボートを一手に所有している」
1978年5月8日のボート乗り場。当時は相当賑わっていたようだ。係留しているボートがなく順番待ちの人が並んでいる。
もう少し古い時代の中島公園。藻岩山と中島の位置から推定すると菖蒲池北側からの撮影と思う。当時は「ボート池」と呼んでいたらしい。1958年頃に作成された「道博記念事
中島公園百花園 及 記念広場平面図」に記されている。
上の2枚はAさんが父君のアルバムから見つけた写真。
平成の再整備以前の中島公園は楽しそう
1992(平成4)年5月17日撮影、 豊平館前で写生会。今と違い東屋があり柵がある。この辺りでも2004年の台風等で何本かの大木が倒れたが、この2本のヤナギは今でも残っているだろうか。大木は当時と今を繋ぐ接点となる。
写生会は今でもあるが、こんなに賑わうことはない。少子化の影響もあるかも知れないが、この時代の方が面白そう。例えば豊平館前の池に橋が架かっていたりする。鯉も鴨も居るのだから、橋から見たら面白いと思う。それに昔の写真を見るとアヒルも居たようだ。
この写真は凄く楽しそう。「子供の国」の観覧車や天文台ドームも見える。マンションが建ったのは残念だが規制がないのだから仕方がない。全体の都市計画の問題であるから、規制がないことこそ問題と思う。
1995年には自然の風情があった豊平館前
以下の4枚の写真についてはAさんからのメールに記されていた説明文に私の感想を交えて書いてみた。
「豊平館前は今と比べると自然環境が保たれていて風情がありました」との説明。池の様子もちがって、自然と融合している様に見える。
「写真の右端にある橋は、今は平らな橋に造りかえられている太鼓橋です」との説明。上とほぼ同じ場所だが、太鼓橋、東屋、橋、豊平館前の池の位置関係がよく分かる。自転車の少女が見えるが太鼓橋は渡れないかも知れない。
Aさんの説明文に「1995年の公園には、現在の公園には無くなった風情がありました」とあるが、自然に包まれている豊平館も素晴らしい。 何となく生き物が生息しているような雰囲気がある。
「夕日が落ちる頃から、ツチガエルの鳴き声も聞かれたことを思い出します」と聞くとやっぱりそうかと思える。ところで最近のことだが、カエルが鳴く声を聞いたような気がした。一生懸命探したが姿を見ることはできなかった。聞き違えかも知れない。
1998(平成10)年9月3日 菖蒲池をさらう工事
菖蒲池の水を抜いてしまうという珍しい写真を「中島パフェ」訪問者Aさんが提供してくれた。何の為の水抜きだろうか。ともかく貴重な写真だ。
1969年8月に着手された札幌市営地下鉄工事中には、このような風景も見られたと思う。工事は池の水を抜いた上で開削工法により行われた。そして翌年の1970年5月の完工まで公園内の一切は使用禁止となった。
菖蒲池の北側の様だ。鴨は飛んで行くので放っておくとしても鯉は回収しなければならない。どうやらその作業が行われているようだ。
網で魚をすくっているようだ。
大きな鯉を捕まえた。
死んでいる様に見えたが、魚たちは待機していたトラックの荷台の水槽へ放され、養魚場へ運ばれていったと聞いて安心した。
こんな貝が池の中に居たとは知らなかった。見る人が見ればこれらの写真から多くの事実を知ることが出来ると思う。写真のお陰で普段見ることができない池の底を見ることが出来た。
以上の写真は「中島パフェ」訪問者Aさんの撮影。一部の文はAさんの執筆。その他、Aさんからの情報を参考にして書いた部分もある。